22世紀に向けた子育て・教育 – 渡米4カ月の雑記

子育て・能力開発

今となっては昔のことですが、私がこのブログをはじめたきっかけは、自分の子育て・教育の記録を記録したかったことでした。以前の記事にも書いた通り、私の人生の目的は「100年後の公共をデザインする」ことであり、現代において特に日本を含む福祉国家では公共の役割は医療介護のみならず様々な分野に拡大し、そして同時に変革を迫られています。子育て・教育もその1つです。

この記事では、私の子育て・教育に対する熱意と思想を、公共の役割の変化と予測とともに概観します。

渡米4カ月:アメリカでの子育て・教育への不安

Amazon USでの仕事にもだいぶ慣れました。渡米後初のPrime Dayも無事終えました。(無事と言えるか分かりませんが。。。)英語も普通に仕事・生活できる程度には上達しました。職場と家(の風呂とベッド)を往復する生活も確立し、最近は学校や病院、地域社会の取り組みといった妻子の渡米後の生活基盤のことをよく調べています。

今現在、グリーンカード取得前にレイオフにならない限りは本帰国の予定はなく、生活の拠点はアメリカに移したいと考えていますが、やはり一寸先は闇であり、今現在の予定など全く当てにならないと思ってます。。。

費用面もさることながら、日本の子育て・教育の経験をベースに考える私には、総合的に考えてやはり日本で子育て・教育する方が魅力的だと思っています。アメリカに来たのはまずは私の目的達成のためであり、それによって妻子にかかる負担をなるべく小さくしつつ、そしてメリットを享受できるよう整えなけばなりません。

日米の保育園・幼稚園のサービス品質や小中学校の義務教育カリキュラムを比較すると、圧倒的に日本の方が良さそうに見えます。加えて、突然命を奪われるリスクも・人種差別も圧倒的に小さく、今思うと日本での生活は本当に素晴らしいものだった、もっと大切にすれば良かったと心から感じます。

「教育」と「訓練」

この記事では私が未来を託す子供たちに対して与える教育について、常日頃から考えていることを書きます。自身も中受・大受で教える側も経験しており、受験というプロセスがその後の人生を大きく左右する一大イベントなり得ることを踏まえて書きます。

なお大前提として、私は巷で話題の幼児教育や公「教育」の効果と私の思う目的の達成への寄与にはかなり疑問を感じており、自分で再構築して自身の子供たちに試す予定です。従って下記は、現行制度に満足されている方から見ると極めて急進的で過激な思想になり得ることをご承知おきください。

出典:厚生労働省:教育訓練給付制度

そもそも「教育」とは何か、特に「訓練」との違いから話を始めます。共に体や頭を鍛えて生産活動への従事を支援する取り組みですが、「訓練」が生産活動にフォーカスするのに対して、「教育」は心身の発達や社会性の獲得、コミュニティ帰属意識の醸成にも配慮されていると考えます。

私が大学受験するとき、大学の役割は(1)知識の整理(=学問)、(2)コミュニティ、(3)就職予備校という意見には結構納得しました。上記の「教育」と「訓練」の議論を踏まえると、大学は学問に行くか、コミュニティに属するか、仕事を得るかの3つにおいて、子供たちにとって教育現場と就労現場の橋渡し的な役割を担うことは理解に難くないと思います。

余談ですが、下記のような辞書的な定義は正直社会情勢の実態に合ってないのではないかと思っています。

【教育】社会で生活するために必要な学問・知識・技能などが身につくよう、教え育てること。狭義では、学校教育。「義務―」「子供を―する」

【訓練】ある能力・技術などが見につくように、実際に練習させて教えること。「避難―」

出典:旺文社国語辞典

この辞書の意味をそのまま使うと、教育が座学で訓練が実践のような印象を受けますが、特に現在進行形で世界の主流になりつつあるジョブ型の世界では、特化した専門領域の学問がそのまま実務に使われており、両者は不可分だと感じます。また、教育と訓練の役割の違いとして、教育が心身の発達やコミュニティ帰属にも重点が置かれていることは特筆されるべきかなと考えています。

社会変化①:貧富差拡大の原因

親それぞれかもしれませんが、おそらく多くの親が子供の「成功」、具体的には経済的成功及び社会的成功を望むでしょう。経済的成功とは、要はお金や資産を沢山持つことで、社会的成功とは他の人より優位な地位や名声を得ることです。両者を得るために、幼少期から教育や訓練を与え、スキルとリレーションを相互にレバレッジさせていくのが古今東西の人間の生産活動と言えるかもしれません。

日本で公教育が整備された1800年代後半に比べ、現在は大きな社会変化を経験し、それによって教育・訓練の役割も大きく変化していると感じます。戦後からバブル前にかけて、(1)従順でマニュアルを読み理解できて、(2)四則演算ができて、(3)工場での集団行動ができる程度の知識と社会性が求められた時代、日本は高度成長やその後の自動車産業での独り勝ちもあって社会全体が豊かでした。

記事のタイトルの通り「22世紀」までを見越して社会変化に対応するならば、もう少し巨視的に考えたいと思います。巨視的とは、日本のみならず世界規模、かつ、直近数十年だけではなく、数百年のトレンドという意味です。この中で、私たちの思考回路が完全に「労働者」目線になっていることに留意し、社会には労働者以外にも「経営者」「投資家」という別の生産手段を持つ人たちがいることも踏まえます。

私が考える22世紀は、公共による単線教育(子供に一律に同じ教育を与える方針)は完全否定され、公共による複線教育(子供の状況に合わせて教育内容を変える方針)の制度化も限界があり、経済格差も拡大することで教育内容が家庭やコミュニティで大きく変わり、その後大人になってなんらかの生産手段を以て生きる上でも、互いに価値観や優先順位を全く違う状態で、家族やコミュニティ外にはオープンにすることなく秘匿するのだと思います。経済的優位性を持つ人々は貴族化していき身分制度が形成され、民族や国境、宗教をベースとした近代以降の「みんなで」的な民主主義的発想は過去の遺物として否定されていくのだと思います。村社会的な単位での共同意識は残るでしょうが、「日本」といった広い地域や民族ではなくなるでしょう。

おそらく「労働者」という階級は引き続き存在するものの、その人たちは常に機械化に苛まれつつ「賃下げ」競争との闘いを余儀なくされ、19世紀フランスの小説家ゾラの『居酒屋』や映画『レ・ミゼラブル』で描写されるパリの街並みのような、貧困で陰鬱に生きる人々が圧倒的多数となる中で、そこから這い上がる人たちが可処分所得の多くを投資に回し、経営者・資本家階級に合流して貴族化する世界観。ポエニ戦争後に奴隷・領土供給が停滞した古代ローマにおける新興支配層エクイテスや、中国の唐末期の黄巣の乱でほぼ貴族が殺された中、その後の北宋建国時に頑張って科挙の勉強して新興支配層となる形勢戸を想起します。

可処分所得を蓄財・投資して得た不労所得が肥大化し、労働所得の比率が相対的に下がることで働くことが不要になり、その生産手段を世襲化して「貴族」となるならば、おそらく私と私の子供は「貴族」の仲間入りするでしょう。実際、もし私が目指す自分の人生の目的を実現したならば、私は確実に貴族になっています。そんなに世の中甘くないですが。。。笑

出典:トマ・ピケティ『21世紀の資本』

経済学者ピケティの著書『21世紀の資本』には、ジニ係数では計測できない貧困の形を計測する手法として、富裕層上位n%の人たちの資本(ストック)や労働所得(フロー)が全体に占める割合を時系列で折れ線グラフ化し、先進国各国で比較しています。上図で解説されているように、ストックでみても、20世紀半ばまではアメリカよりヨーロッパの格差が大きかったものの、それ以降のアメリカの格差拡大が目立ちます。

ピケティは、歴史的に見て一貫してr>g、つまり「投資・貯金の利回り」>「賃金の伸び」であるため、戦争等の混乱期を除いて資本家や経営者の富の比率の伸びは労働者の比率の伸びよりも大きいことを指摘します。つまり格差は拡大し続けます。

群馬の貧農出身だった私は、父が医者となり一定の所得を形成してくれたおかげで階級を高めました。父は家庭の貧困を理由に大学の学費が全額免除される家庭で育ち、歴史家を目指して京都大学の史学科に進学したかったものの、高校の先生から「歴史の研究してどうやって飯を食っていくんだ」と言われて群馬大学の医学部に進学したそうです。

父が学費を払ってくれたおかげで、私は公立小中から都内の私立高校に進学し、そこで群馬のド田舎では想像もできないほどに富裕層(東京の乱立する駅ビル群の不動産所有一家とか。。。)を目の当たりにしつつ、自身も沢山失敗しつつ試行錯誤を続けて(たくましく)生産手段を身に着けて今に至ります。私のような人生は、まさに古代ローマのエクイテスと同様かもしれません。

出典:トマ・ピケティ『21世紀の資本』

上図において、国民所得、雑に言い換えると国民の労働所得において、金額トップ1%の人が占める金額の割合は、ヨーロッパ・日本含めて大して大きく変化していません。つまり、1970年代以降、賃金格差そのものはそこまで肥大化しておらず、労働者の中でもごく限られた一部の高所得者が投資に回した不労所得で甘い蜜を吸いつつFireして悠々自適な自由を手に入れていることになります。

出典:トマ・ピケティ『21世紀の資本』

しかしアメリカは違います。r>g に加えて、ピケティが「スーパー経営者」と呼ぶ一部の人々が超高額な労働所得を得ており、労働者の中でも格差が大きく進展します。つまりアメリカでは、投資家だけではなく一部の経営者や一部の高賃金労働者が「超高額報酬な労働者」として更に大きな所得を得ています。

出典:トマ・ピケティ『21世紀の資本』

こうして、総所得(資本所得と労働所得の合計)における格差は、1970年代以降、特にアメリカで大きく拡大します。富裕層の貴族化とは、富裕層の持つ投資・経営という生産手段が世襲され、階級が固定化することを指します。アメリカンドリームという言葉は、労働者がこういった貴族層に合流することをさすものの、その成功確率は極めて低く、成功者が成功の秘訣を語るのは生存者バイアス丸出しでしょう笑

社会変化②:大学の役割の変化

上記の貧富差拡大要因を踏まえ、次は大学の役割の変化について論じます。実は私は東大に受かったけど慶應に進学した人間です。自分の中にある仮説を信じて進んでおり、そしてそれは今間違っていなかったと思っています。

先に述べた通り、大学の役割は(1)知識の整理(=学問)、(2)コミュニティ、(3)就職予備校 とします。(1)について、大学は今後も研究機関として高い品質と権威を維持することができるのでしょうか。私の考えはNoです。

まずは運営体制について、少子化に加えて独立行政法人化後の予算削減も相まって、昔ほど潤沢に失敗できる環境ではなくなり、集中と選択」の名のもとに、あたかも予め結果が出ることが分かっているかのような分野への投資が叫ばれます

出典:日本私立大学団体連合会 令和4年度私立大学関係政府予算要望 データ編

なお余談ですが、独立行政法人化の流れや国立・私大への予算編成のつき方の変化は目下勉強中です。間違いや良い論文・書籍あればご紹介頂けますと幸いです。各会議体で主張の方向性が違うので使っているデータが異なり、どれを正しいと扱うべきか、自分の意見が固まりきってません。

出典:文部科学省高等教育局 国立大学法人支援課 国立大学法人運営費交付金を取り巻く現状について

もう少し歴史的に見てみたく、東大世界史1984年第1問を引用したいと思います。

第一次世界大戦と第二次世界大戦とは、20世紀の戦争として、それまでの歴史に見られなかったような特徴を備えている。二つの戦争を比較し、これらに共通する新しい性格と結果とを600字以内に論ぜよ。なお、解答文では下記の語句を少なくとも一回は使用し、最初に用いたときには下線をほどこせ。

工業力 国民生活 アジア 残虐兵器 植民地 革命 国際平和機構 飛行機 アメリカ 国家統制

そもそも研究にはお金がかかるため、財政的な余裕や研究を戦略に織り込んだ組織の出資なくして継続しません。中世ヨーロッパで始まった大学制度は、例えば天文学の研究成果が暦や天候の理解に寄与し、クリュニー修道院主導の開墾などに貢献したそうです。キリスト教の普及は、彼らが農業の拡大・改善を指揮したことで人民の支持を得たことが大いに寄与したのでしょう。

産業革命は民間からスタートしたものの、その後の科学技術の発展を軍事転用する過程で国家主導の研究開発ニーズが高まり、総力戦下でも研究予算が確保されていたものと想定します。ここまでが東大の問題でもフォーカスされる歴史ですが、その後も冷戦下では核兵器や宇宙開発の必要性から国家予算は引き続き確保されており、軍事技術の延長線上に機械学習のベースとなるパーセプトロンや核攻撃に対応するため多拠点情報連携を可能にするインターネットの技術が開発されるも、ソ連崩壊と宇宙開発ニーズの衰退で正当性を失い、ダラダラ予算削減やってるうちに民間でweb・クラウドが勃興・急成長し、再び国防や兵器としてのニーズが高まりつつあるのに民間主導を余儀なくされている。こんなトレンドのようにも感じます。

今や民間企業で研究を続ける方がお給料的にも良いこともあり、研究側は昔に比べて担い手の確保に苦心しているそうです。今後、研究の主体は大学より投資余力のある民間企業に移るのかもしれません。

次に(2)コミュニティ、(3)就職予備校 について。

ビジネススクールの話の際に、MBAの取得があたり前になってしまい、その価値が薄まったと書きましたが、学部レベルでも同じような現象が起こっているといえるでしょう。また、大卒が増えたといっても、増えたのは二~三流校、コミュ二ティカレッジに行く人たちで、トップ校の卒業生数は変わっていないという説もあります。ビジネススクールやロースクールと同様、学部レベルでも、トップ校にはやはり価値がある、裏を返せば、トップ校でない限り投資対効果にはあまり期待できないということです。

日本では大学全入時代が叫ばれて久しいですが、国内で進学にしろ、海外に留学するにしろ、もはや大学を出たからといって就職できるとは限らず、生活できるだけの給料が約束されているわけでもない現実を踏まえて、進路を決める必要があるでしょう。

出典:Dai job.com 大学を出ても職がない(2)–学位の大量生産?

2024年現在、特にアメリカでお会いする学生や求職者から、名門大学卒・有名企業インターンまたは実務経験なくして有名企業には就職できない、書類すら通らないという悲痛なお話を沢山訊きます。常に業務効率化が求められ、特に生成AIの発達も相まってエンジニア職の採用が絞られる中、今後、必要になる労働者そのものが減っていくことが想定され、より名門大学でお勉強ができそうな人だけが良い就職ができ、その子孫がまた名門大学に入学できるようになり、名門大学は無限に学費を上げ・・・という未来は非常に容易に想像できます。

参考:米国の24年大卒組、試練重なる-パンデミック直撃の大学生活に就職難

従って、職務遂行に必要な情報処理能力ではなく、お家柄や経験、出身大学が名門か否かが就職において必要な主要項目となり、その主要項目を勝ち取るには高い学費を払う経済力が必要になり、従って格差拡大における貧困層にはますます手が届かなくなっていきます。

まとめると、(1)知識の整理(=学問)の主戦場は大学から民間企業に主導権が移り、(2)コミュニティ、(3)就職予備校は富裕層のみが有名大学に進学・卒業する支払い能力を持ち、そこからのみ有名企業への就職が決まるので、貧富差の拡大によって階級が固定化し、大学は貴族化した富裕層のコミュニティ圏就職予備校となるのでしょう。

名門大学に入るための幼児・小中高教育

このトレンドは、特に先進国各国で今後急激に加速すると考えます。既に貴族化してる方々は、既に大学入学前までの教育や経験に大いに投資できるため問題なく、私のようなまだ貴族化してないけどこれから富裕層・貴族層に取り入りたいと考える層は、大学に合格するための美しいレジュメを仕上げるべく、様々な勉強と活動に打ち込むことが求められます。

日本では今現在、未だペーパー試験による学力での平等な選抜が行われていますが、既に私立有名大で推薦やAO枠が拡大したり英検x級で受検科目が免除されたりと、徐々に名門貴族化が進行しており、22世紀には学力試験そのものの存在が危ういと考えます。

出典:グシャの世界史探究授業 [2-2.3]前漢の政治

東アジアにおけるペーパー試験の起源は科挙に求めるべきか思いますが、7世紀や8世紀に中国の隋・唐で(恩蔭の制が縮小する平等な)科挙が開始・定着する前は、漢代の郷挙里選や魏晋南北朝時代の九品中正のように、人材登用は貴族から貴族への推薦によって行われ、筆記による平等な選抜などなく、22世紀に向けて「貴族から貴族へ」という選抜に回帰すると思われます。

「ならば尚更、今のうちに我が子を東大に入れなければ!」という親御さんも多いと思います。現に私が教育現場で教えていた際は、そういう圧の強いお母さま・お父さまと沢山お話しさせて頂きました。

そのために多感な青春時代を勉強に捧げて難関中受に挑戦することについて、私は個人的には非常に肯定的ですが、今の日本で主流となる「6教科8科目を満遍なく高得点になれる」タイプのある程度高水準かつジェネラルな学力は、一部の官僚などを除いて職務には不要になるでしょう。

出典:Quora:数年前まで世界大学ランキングで東京大学は10位以内にありましたが最近は東大の順位を落ちています。これは日本の教育の質が劣化しているという意味でしょうか?

むしろ、こうした試験を良しとする日本の「学歴」の価値そのものが世界的に低下しており、世界の大学ランキングでも低下傾向になる中で、子供たちに必死になって勉強させて身に着けさせた学力が、社会的・経済的成功への寄与として影響力が小さくなっていると感じます。こんな時代に、幼少期からみっちり学校終わったら塾に行かせて、帰宅後に宿題やらせて、といった勉強をさせるべきなのか。。。

「自分から勉強する子」の家庭の習慣

東大生を育てる親は家の中で何をしているのか?

「東大に入る子」は5歳で決まる

日本では、確かに「東大生の子は東大生」といった、高付加価値な労働者が高所得を得て、多額の教育投資を行うことでその子供も高付加価値の労働者となって高所得者層を形成することを揶揄されますが、アメリカの格差からみればかわいいものです。しかし、その競争に勝ち抜くために多くの親が幼少期から子供に何を施すべきか沢山頭を悩ませており、そして私も悩む一人です。

出典:【データで見る】東大生の幼少期における共通点と、保護者の子育てについての認識

加えて日本には年金・医療介護といった社会保障をはじめとした強力な再分配制度があり、格差の拡大は抑えられています。「日本はみんなで貧しくなっている」という指摘もありますが、アメリカのスラムや貧困の実情を見れば、それが悪いことだけではないと感じるでしょう。

出典:「上級/下級」の分断社会 世帯間の所得格差が加速度的に拡大するワケ

出典:厚生労働白書 社会保障と経済成長 所得再分配による等価所得の格差(ジニ係数)是正効果(税・社会保障別)推移

アメリカの格差は、成功者とそれ以外を非常に明確に分ける分、成功者になりあがれない圧倒的多数は、仮に経済的成功を人生のモチベーションに据えると、非常に辛い数十年間の生活を送ることになります。仮に私が成功してもしなくても、子供たちや自分が関わる人たちにはそうなってほしくないと心から思っています。

ここにおいて、私は非常に葛藤しました。仮に生涯日本で生きるなら、日本の労働観に沿って「勉強や精進を重ねて高所得な労働者になる」ことを目指すべきだろうけど、アメリカでは違います。世界に先駆けて労働者の専門特化を前提としたジョブ型が進行しつつ、日本における一般的な労働者とはそもそものマインドセットが違う経営者・投資家として生きるなら、幼少期からその生き方に触れる必要があるし、子供たちも両者の違いに早期から葛藤することは間違いないと思います。

22世紀の人間の価値:「媒介」できる調整能力

上記の格差要因の話に加え、私が考える22世紀は、今よりずっと機械化・効率化が進み、貴族層が労働に従事する領域は限られているでしょう。その中で求められるのはコミュニティ、つまり利益拡大に向けた意思決定をなるべく優位かつ迅速に行うことができる人脈であり、かつ、その利害関係を調整できる能力がメインになると思います。

より経済的・社会的支配階層に近づくには、東大よりも慶應では?という仮説は、私が身をもって確かめることができました。官と財のパワーバランスは、20世紀や21世紀前半に比べて、財に大きく比重が傾いていくことでしょう。三田会に属すことでアクセスできる人・そして情報(そして多分カネ)。多くの学生は活用しなかったでしょうが、私は三田会の人脈をかなりフル活用しました。そこで見えた世界観が、今の私の思想の大元となっているのは間違いないです。「媒介」の重要性も、慶應で「資本主義の上澄み」と揶揄される人たちの交流を目の当たりにして頭で理解できました。

以前記事で述べた、CEFRの理念「媒介」の重要性は、慶應で学び、そして慶應で確信に変わりました。それは、群馬の貧農で育った私があの村社会で見てきた「我慢する」「長に従う」調整とは全く性質の異なるものであり、産業資本家(ブルジョワ)として如何にカネを生むかを考えて行動を決める必要があることを学びました。

公教育の役割:ボトムアップ

ここまでが私の世界観なのですが、仮に私の考えが正しいとして、こんな世界で行政が提供する公としての子育て・教育は、いったいどこまで寄与するのでしょうか。

基本的に行政が担う教育は国民の大多数をボトムアップする目的であり、貧困層が貧困で死ぬことのないよう、正規でも非正規でも就労できることを目的に機能します。賃金が生活に足りなければ社会保障による再分配で支えます。

学習塾にかかる費用が上昇しています。東京都における中学生の学習塾の月謝は、9月分が2万6792円と、この40年間でおよそ2.8倍になりました。少子高齢化が進む一方で、教育に対する関心や子供の将来への不安が年々大きくなっています。受験の低年齢化もあり、親が幼児から習い事に通わせる傾向も高まっているようです。

コロナ下でも子供の教育にかけるお金は惜しまないという人が多いですね。連合総研の勤労者短観によると、世帯で切り詰める支出として外食費や衣料費、遊興交際費といった項目が上位なのに対し、子供の教育費は一番低くなっています。

出典:日経新聞 学習塾費用、40年で2.8倍に 学力低下への不安大きく

つまり、貴族になりたい世帯を貴族にするための教育ではないため、それだけの教育投資や教育機会は親が確保・提供する必要がある時代であり、あまり責任論にはしたくないものの、の現実に気づき、自分たちの生活水準を下げつつ教育投資を確保・拡大できた人たちが、22世紀の貴族層に合流できるのでしょう。結構残酷な話ですが、きっと現実になるだろうし、22世紀を象徴する小説は、「俺の先祖、なんでもっと俺の親や祖父母に勉強させなかったの・・・?数十年前ならまだ間に合ったのに・・・」という嘆きの文学が多く登場すると思います笑

私が想定する子育て・教育

さて、上記のような壮大な世界観を持つ私が考える教育論は、いかに壮大なものかというと、全然そんなことはありません笑 結局のところは幼少期から人脈と「媒介」能力を高めるために色んな文化圏や極端な人々に触れさせつつ、幼少期から一つの特化した領域に打ち込ませることで、高い技術と低い技術の違いと高みに至るのに必要な精神性を身に着けさせるのみです。労働者としても一領域を極めて高い労働単価を得ることができ、いち早く経営者・投資家に移行できるようにする。既に多くの論者が論じていることだし、私は両親が自分に施してくれたものを少し形を変えながら子供たちに引き継ぐだけです。

とはいえ、しっかり理論化しつつ記録に残したいがゆえに、このブログを始めました。ただ私も基本的に素人なので、既存の発育や教育理論を理解しつつ紐解くところからスタートしています。

出典:Median-net : 小児看護学

例えばデンバー式発達スケール。これは非常に示唆に富んでいました。私はこれをWBSのようにエクセルで分解しつつ、子供の到達度合いを日付ベースでトラックし、次にどんな成長が見られそうか、なぜそうなるかを妻と一緒に観察しています。

なお誤解なきように、こうした手法を行うとで子供の発達が早まったりするわけではありません。現に長女は歩行や発語が中央値よりも遅く、粗大運動全般はちょうど中央くらいでした。

もう少し具体的な話をすると、長女は2022年11月27日に初めて掴まり立ち。生後8.8カ月なので標準よりほんの少し早い程度だったものの、ずり這いから立ち歩き開始までの時期を早めたいと思っていた私は、以前から積極的に発育に介入を試みていました。

2022年7月23日にずり這いを確認し、直後に介入スタート。二足歩行の姿勢成語に必要な腹筋・背筋・大腿四頭筋・下腿三頭筋を鍛えつつ、直立した際の視線に興味を持ってもらうべく、毎日2時間以上ジャンパルーで遊ばせる時間を作りつつ、重心が前によった状態でジャンプしてる様子だったので、別途私がハイハイのマネを見せて一緒にハイハイする時間をつくり、腹筋・背筋強化を試行。

フィッシャープライス ジャンパルー

ジャンパルーで遊び始めて3週間後、ジャンプする際に足の裏の外側で着地・踏ん張っていることに気づき、O脚になりバランスを崩しやすくなることがないよう、親指側でジャンプさせるように介入。デンバー式を理解する過程で、足の外側の筋肉を使うと骨盤が開いてハイハイに悪影響が出ることも学んだので、骨盤を閉じる体操も追加、こうして11月末のつかまり立ちに至りました。

参考:毎日が発見ネット:O脚タイプに効く「親指ふんばり歩き」。1mmの小指上げを意識することで効果てきめん!

参考:6歳boy&3歳girl子育て中ワーママ 0y10m ✳︎ズリバイからハイハイの練習

上記の介入目的は、ずり這いから二足歩行開始への移行を早める、つまりハイハイ・つかまり立ちの工程を早期化・期間短縮することでしたが、結果として掴まり立ちが多少?早まった程度で、目覚ましい効果は見られませんでした。

こんな感じです。子供を常に注意深く観察し、寄り添いつつも決して無理はさせず、そして好奇心だけでは到達できない境地まで到達することを手伝う。こんな考え方で子供たちと接してます。

はたしてこうした試みが成功か失敗かは、将来の結果を見なければ分からないのですが、私はこの試行錯誤の過程で子供たちをよく知り、触れ合うことができ、そして何より親が探求する姿勢や背中を見せることが子供たちにとって良い刺激になることを切に祈っています。

なお、私は子育ての進捗管理を数値目標を持って明確に管理してますが、その辺の細かい話はまた別の機会に。

最後に、私が子育てや幼児教育を考えるうえで大いに役立った書籍を貼っておきます。同じ悩みを抱える親御様のご参考になれば幸いです。

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