宗教との出会い

プロフィール

幼稚園生だった私は、敬虔なカトリック信者だった母の影響でカトリックの洗礼を受けます。また、大学生になった際には宗派単位で数えて50以上の宗教・宗派を訪ねました。これまでの人生、宗教という概念は私に非常に強く影響を与えました。

カトリックの洗礼

今となってはもう20年以上もミサに通っていませんが笑、幼少期の私は毎週教会に通ってミサに参加しつつお祈りを捧げる子でした。正確には私の意志ではなく、敬虔なカトリック信者だった母が車で私と私の兄を連れて行っていただけで、別に仲の良い友達がいたわけでもなく、むしろ教会での色々な方々との人間関係は、正直に言うと子供ながらに異質なものを感じていました。

洗礼を受けることや、そもそもカトリックという組織の歴史や社会的意義を理解するのは、高校で熱心に世界史を勉強してからのことです。それまでは、とりあえず毎週末に行かなきゃいけない場所、膝をついて手を組んで真剣そうに心の中で何かを言わなきゃいけない場所という認識で、いつも母の素振りを真似しつつ、その日のお昼ご飯のことや前日に観た夢のこと、そしてバイオリンのことを考えていた記憶しかありません。やはり子供に「懺悔」という概念を理解させるのは難しいのでしょう。

母は大学生時代に女性解放運動の流れの中でカトリック系のサークルなりインカレなりに所属し、その影響でカトリックの教えを信奉していたものの、今から考えると、オリンピックを目指して体操に打ち込んできた母は、理論や目に見えるものを超えた人間の覚悟や情熱が持つ力を理解し、体操を引退した後もそうした心の力を維持・拡大する方法を模索していたのかもしれません。

私が5歳か6歳の時、私は兄と一緒に洗礼を受けました。その洗礼を受けるために、事前に1泊2日で教会に泊まり神の教えを叩きこまれるコースに参加したことを覚えています。コースの内容は殆ど記憶にないものの、夜私が盛大におねしょして2日目の朝に敷布団が干されていたことは鮮明に覚えています笑

当時私は、このカトリックという組織を「奇妙なコミュニティ」だと認識していました。それは、私がバイオリンや幼稚園、ご近所付き合いなど様々なコミュニティと比較する中で、この組織に異質なものを感じていたのだと思います。

その異質性とは、関係の希薄さ。正直名前も大して憶えていないようなおじいさん・おばあさん、毎週通ってるのに一緒にご飯を食べるわけでもなく月に一回話すか否か程度のおばさん方、熱心にふるまう母とは対照的にミサ中に寝てたりつまらなそうにしてる方々。

同じ空間と時間を共有しているのに、一緒にいるのに、何か関係性が希薄で、でもイエス様と神父様の手前、必要に応じて仲良くしなければいけない。群馬の田舎で良くも悪くも濃厚でウェットな人間関係がデフォルトだった私からすると、この教会の人間関係は異質でした。

次第に私は、この関係性を「やむを得ない」「なんらかの事情で」一緒にいる人たちだと考えるようになります。また、ミサの時間には必ず、参列者の前から後ろに布製の袋が回される時間があり、信者はそこにお金を入れます。これは寄付ですが、幼稚園児の私には寄付という概念はよく分からず、母は普段自動販売機で買うことも強く禁じている中で、ここぞとばかりに小銭を出して袋に入れることに、正直良い思いは抱いていませんでした。

こうした原体験から、カトリックとは人をまとめる装置、金を集める装置という認識が強まります。いつも読まされている聖書で、マタイの手紙やらルカの手紙やら、それらを通じてどういう意味があってどう生きるべきなのか、そのためには神様に対してどういった心構えが必要なのか、とりあえずしこたま色々言われましたが、そんなことを理解して実践できるほど私はピュアではありませんでした。

こうした経験から、私の中で宗教=手段=集客・集金装置というゆがんだ認識が作られます。最も、それは決して穢れた・ネガティブな認識ではなく、教会で幸せそうに生き生きとしている人たちもいたことから、幸せを作る一手法なんだ、程度の認識でした。

神秘的な力の持ち主との出会い

宗教といえば神通力であり、人を超えた何らかの力を想像します。それは私も、きっと母も同様でした。母はカトリックに限らず、様々な人や宗教・宗派との関わりの中でこうした力を持つ人に傾倒してました。ここまで読んで頂くとお察し頂けると存じますが、普通に見て結構ヤバいのめりこみ方をしてた母です笑

なお、父はこうした母の人間関係やお金の使い方に対して全く関与しませんでした。母が好きなことをすれば良いけど、父はそこには踏み込まず関わらず、こうした考え方・スタンスの違いをめぐって父と母が喧嘩することは少なくなく、兄と私は喧嘩が起こる度に別の部屋に避難してやり過ごしてました。

そんな中、私が小学生でサッカーに熱心だったころ、兄のサッカー同級生の母親で、神通力を持っているとされている方がいました。Kさんとします。母はKさんとかなり熱心に関係を持ち、私が知る範囲でも物品を買ったりお布施としてお金を渡していました。

Kさんは、死者と会話したり霊が見えたりする人でした。未だに真偽は分かりません。ただ、母が傾倒した理由で私にも理解できた記憶は2つあります。1つは、Kさんが母の母、つまり私の祖母の口調と記憶を完全に再現して話したこと。祖母の魂を自身に乗り移らせる降霊術、イタコです。祖母は私が幼稚園の年中のとき、63歳で亡くなりました。母にとってこの死は早すぎたもので、よく祖母のことを思い出しては泣いてました。Kさんは、母と祖母しか知らないやりとりを、祖母の口調で再現しました。祖母に毎朝算数や天然石の目利きを教わっていた私から見ても、Kさんが再現する祖母の口調は本物でした。そして私はKさんに問います。「ばあちゃんが大事にしてたエメラルドをしまう箱の原材料は?」

私はKさんを試したつもりでした。この質問、箱の原材料として普通に想像するのは木材。しかしKさんの回答は「菊花石」でした。この菊花石の箱は祖母が生前に私にくれたもので母も知らない情報でした。確かにKさんには、何かしらの力があるのかもしれないと小学生の私も感じました。

2つ目の記憶は、伊勢神宮。何かの拍子でKさん、母、私の3人で旅行に行く機会があり、その過程で伊勢神宮に招かれました。この旅行は伊勢神宮で行われる特別な行事に合わせて企画されており、Kさんの招きで私達が入場・礼拝した場所は、実は天皇や伊勢神宮の関係者が数年に1度入場することができる場所でした。Kさんはこうした宗教組織の中で実力を認められ、地位を築いた人でした。伊勢神宮を参拝したとき、「見える?あそこで紫色の火の玉がぐるぐる回ってるでしょ?」とKさんから言われたものの、当然私には何も見えず笑 しかしこうした経験から、自分には知覚できない世界の存在、それを知覚できる人の存在は認識してました。

なお余談ですが、兄の中学卒業あたりから母とKさんの関係も徐々にフェードアウトしたらしく、母にきいた話ではKさんは精神的にちょっとイカれてしまい、自身の両目を自身で潰してしまったそう。神通力とは紙一重だね、という謎の結論で落ち着き笑、次第に母とはKさんの話をしなくなりました。

神を信じる生き方との出会い

高校生にもなると、勉強の中に宗教が様々なところで登場します。世界史のみならず、宗教と理性の2言論を解説する現代文や、倫理で出てくるキルケゴールの実存主義周辺。こうした勉強と過去の自身の経験の中で、私は宗教を自身の思考の枠組みを客観化するツールという認識を強めます。

リンゴが木からを落ちる現象を、神の采配ではなく重力だとしたニュートン。天動説に神ではない物理エネルギーを見出そうとして地動説に行きつくコペルニクス、ガリレオ、ケプラー。彼らの生涯を学ぶ中で、人々の私生活、物の見方、判断軸や優先順位に深く根差した宗教という存在を意識するようになり、信仰的・非信仰的思考を常にメタ認知することの重要性を感じるようになります。

そんな中、確か私が大学生だったある時期、これまた母の人間関係でアメリカのシャスタ山に家族で行くことになりました。ロサンゼルスから車で10時間ほど?だったと記憶してます。ネイティブアメリカンの聖地。クリスタルガイザーの採水地です。パワースポットとしても有名で、現地に住む日本人が民泊をやってたり、日本食のお店があったりで、日本の観光客は少なくなかったそうです。

そこでも色々ありましたが結論として、私はその地のネイティブアメリカンの長老的な位置づけの人から「この石に呼ばれている・導かれている」と言われ、その部族で大切にされてきた石の一つを譲り受けます。私のような観光客に対してこのようなことが行われるのは極めて異例だったそうで、私達をガイドしてくれていた方も非常に驚き、また母は「なぜ私じゃないの?」と多少不満そうでした笑

その石は今でも大切に肌身離さず持ってますが、石のバイヤーとしての私からすると、消費者向けに販売するなら500~1000円程度のラブラドライト笑 決して貴重なものではありません。ただ、ここに至る過程でネイティブアメリカンの方々の生活様式に触れ、先祖への畏敬の念が生活や思考の枠組みに浸透し、神聖な場所を本当に神聖視したり、果物や魚といった山から採れた恵みにここから感謝したり。それは、今まで私が日本で観てきたうすっぺらい宗教組織の宗教ごっことは全く異なる、生活の基盤であり信念でした。

相互理解、メタ認知の手法を求めて

上記の体験も踏まえ、大学生になった頃、私は信仰や宗教を自身を顧みたり集団の相互理解を促す上でのツールとしてうまく活用できないか、と考えるようになります。

この時期の私の興味の対象は人間の思考と共同体管理・維持。決して難しい話ではなくて、例えば各会社組織には各会社の「文化」と呼ばれる暗黙知や言語化されないルールがあったり、公私の濃淡や区別に差があったり、善悪判断の基準に違いがあったり。国家の運営や国際協調、ビジネス上の慣れ合いにこうした要素が密接に関わっていると感じ、これらの形成過程を肌で実感しながら理解したいと考えた結果、様々な宗教・宗派を訪ねて指導者から話を訊くことにしました。

宗教の成立要素は「教祖、教典、聖地、神殿、信者」の5つ。ルソー曰く、大規模治水等自然環境の整備のため大規模に組織化する必要が生じた人類を束ねる手法として宗教が誕生すると。また、こうして作った「文明」が複雑になりすぎて、今度は生きずらくなってしまうという本末転倒が人類の歴史だ、という歴史観はガンダムUCから学びました笑

共同体の成立過程や、共同体を管理・維持するための共通認識やルールの共通点・相違点を整理すべく、足しげく様々な宗教・宗派を訪ねました。メジャーどころの仏教・キリスト教・イスラム教は日本に存在する宗派を細かく分類して訪ね、中には重大な事件を起こして国家から監視対象と指定されている新興宗教にも行きました。全部で50以上。今から考えると命が危なかったかもしれません笑

また、宗教組織とは真逆の存在ですが、日本共産党などの特定の思想を持つ組織も訪ねました。特に運営層は、様々な社会情勢や組織内パワーバランスの変化の中で、ときに教義にメスを入れつつも共同体を維持し、自己矛盾を受け入れなければならない。日本共産党が暴力革命を否定したように。

昔、日本に来たフランシスコ=ザビエルが日本にキリスト教を布教しようとして「神を信じれば救われる」と説いた際、日本の民衆から「信じてない人は救われないの?」と詰められてバチカンにお悩み手紙を送ったシーンを思い出します。

ザビエル 「洗礼を受けていない人は、みな地獄にいる」
日本人 「あなたの信じている神様とは、ずいぶん無能で無慈悲ではないか。全能の神というなら、我々のご先祖も救ってくれていいではないか」

苦労した?ザビエルの布教活動 より引用

数多くの怪しい方々との出会いがあり、その大半は、信者の不遇の原因を明示して一緒にいることによる安心を説く教祖とそこに群がり相互承認に生きる意味を見出す信者たちの構図だったけど、2つだけ非常に印象に残ったものがあります。

一つは仏教の一派、ヴィパッサナー。世界中に拠点があり、日本だと千葉の茂原と京都に拠点がある。現代の仏教は教祖であるガウタマ=シッダールタの教えを宗教組織が権威化・難解化させたものであり、自分たちは教祖の教えそのものを実践する組織だと仰っていた。デジタルデトックスというキーワードが流行っていた当時、10日間食事と寝る場所を確保の上でひたすら瞑想するプログラムがあり、参加費無料とあったので学生の私は飛びついて参加しました。結果として、非常に貴重な体験だった。男女別で10数名程度の参加者は10日間一切会話禁止。もちろんスマホはじめ文字・音声媒体は全て預け、10日間常に瞑想しながら自分と向き合う。瞑想方法は教えて頂けます。

2日ほど経つと自分の輪郭を知覚するようになり、4日目くらいに軽い幽体離脱感覚を味わう。10日目には自分の意識が部屋全体に拡張し、自分の肉体を見てる自分、それを見てる自分、それを見てる自分。。。といったようにメタ認知を永遠に繰り返すような感覚に至る。当時は、このメタ認知の行きつく先に解脱があり、精神的にぶっ飛んでしまうのかなとある種の恐怖を感じました。

朝昼夜の食事は運営側が準備してくださいます。運営スタッフも全員ボランティアで、過去のプログラム参加経験者。10日終了後、寄付を求められる時間はあるものの、私は電子交通マネーで会場まで来たため現金を持ってきておらず1円も寄付できず笑 そして参加者も多彩で、超バリバリ稼いでる経営者から歴10年以上のニートまで。私以外にも寄付0円の方は何人かいたけど、誰も何も怒ることはなかった。当時の経験は非常に貴重で、機会があればまた参加したいと考えています。

印象に残ったもう一つは神通力系の新興宗教。2023年現在、未だ怪しい活動をしているので詳細は伏せるものの、2万円ほどの教材費を払って普段体に眠っている体の本当の力を呼び起こすというメソッドを実践すると、確かに本当に何かに目覚める感覚がありました。一時期だけだったけど、正直色々見えるようになり、上述のKさんはこんな景色を見ていたのかもしれない、と思うほどでした。あの組織は本当に、人の眠れる力を呼び起こす手法を開発し、宗教の体を取りつつその手法を広めようとしているのかもしれない。こちらについては、子供が独り立ちし妻も含めて誰にも迷惑をかけずに済む環境を整えたら、再び訪ねていたいと思っています。

分断の世界を生きるシステムづくり

22世紀に向けて、私達はバラバラになる道を歩んでいます。経済的格差を筆頭に、私達は互いの常識や前提をぶつけて批判し合い、融和ではなく対立を軸に住み分ける。私達を待ち受ける未来は、(1)共通のコミュニティに属せる人たちを愛し、それ以外の人たちを排斥する、(2)個々人が複数のコミュニティに属し、その関係性がクラスターのように可視化される ものだと考えています。この時代、GAFAMをはじめとするグローバル企業は、国家や各地域の人々の思想に順応しつつグローバル展開を続けており、プラットフォームとはこのような柔軟性を見せつつ分断された複数のコミュニティに浸透していくものだと感じています。

宗教行脚を経て私が得たものは、分断された複数の集団を自由に行き来したり融和できる「媒介」の概念。私がその力を有しているとは思えないけど、後世を生きる子供たちには、その力の重症性を理解させつつ、その力をつけさせてたいと感じます。

タイトルとURLをコピーしました