お前をUSに連れてきた理由 – 渡米から2週間の雑記

プロフィール

2024年3月18日、ついにAmazon USでの仕事をスタートしました。とはいえ英語が苦手な私は仕事どころか日常生活でも大苦戦。。。シアトルのタコマ国際空港のpassport controlでは私が緊張で挙動不審過ぎたのも相まって非常に時間かかりました。。。笑

新生活で不安と苦しみの2週間を耐えた折、新しいmanagerと初めてゆっくり話した1:1にて頂いた言葉がとても印象に残っており、嬉しかった点も沢山あるので、ここに書き残しておきたいと思います。お給料の話とか、割と赤裸々に書きます。

アメリカでの新しい生活

長く過ごした日本を離れると言えど、不思議とあまり寂しさはなく、また、アメリカは都心以外は私の生まれ故郷の群馬と同じくらいローカル色が強いので笑、異国にいる感覚はありませんでした。英語以外。。。思ったより町はキレイだし、特に職場のあるBellevueは桜も沢山あってアジア系が多く、日本の食材も沢山売ってるので、正直日本より快適で拍子抜けしてます笑

それでもやはり、日本に残してきた妻子のことは常に気にかかります。毎日連絡とってますが、次女が寝がえり返りしたとか這い始めたとか、長女がより喋れるようになったとか。ビデオ通話すると、画面越しの私が本物かどうか分からず凝視する長女が面白い一方で、甘えたそうな素振りも見せてかわいそうでした。一人で先に行って申し訳ない。なるべくこちらの準備をしっかり整えておくから待っててくれと心の中で泣きました。

住環境、各種手続き、知り合いづくり

心配してたほど困りませんでした。飛行機に乗る直前に予約していた仮住まいが先方都合でキャンセルになるというアクシデントはありましたが、直後はホテルで2泊、その間に決まった新しい仮住まいで2か月半暮らします。

この仮住まいの入居時に仲介会社とアパート側で連携がとれておらず、アパートに常駐スタッフもおらず、私が到着してから3時間、電話にてたらい回しにされ続けました。。。笑 でもなんとか入居できたし、自分の英語での説明力や交渉力にある程度自信が湧きました。

心配していた治安は、全く不安を感じません。本当に治安の良い地域。調べると、私の生活圏内は米国の中でも所得が高い人が多いようで、たまにマナーの悪そうな車は見かけますが笑、発砲とかケンカとかはまだ見てないし、ホームレスすらいません。東京駅より平和笑 以前住んでいた日本の海浜幕張の住宅街と同等くらいの落ち着きを感じてます。

仮住まいからオフィスまで徒歩2分。家に家族もおらず、家にいてもダラダラするだけなので、毎日オフィスで仕事や勉強してます。オフィスは非常に快適で、コーヒーも軽食もあるし設備もバッチリ。本当に環境に恵まれました。

visa、SSN、銀行口座や保険など、よく聞く「アメリカ移住で大変なことセット!」は、多少手はかかりますが事前に調べた通りなので、現時点ではそこまで困ってません。

幸いにして、会社内にも日本人の繋がりがあり、また、SNSで繋がった人から教えて頂く機会も多く、多少の不自由さはあれど不安はないかな。そして、不自由さは自分から仕組みを作って解決すべきと考えており、今後はどんどん企画しまくったりしながら仲間を増やす所存です笑

新マネージャーとの挨拶

USへの出国の数日前、突如hiring manager(採用担当者かつ新しい上司)から連絡があり、「あなたのmanagerは私ではなく別の人になる」と言い渡されます。これまで非常に親身に相談に乗ってくれたり導いてくださった方なので突然の悲報に出国前から落ち込みましたが、「私ではなく、私のmanagerだ」と言われました。「組織のより上流で仕事をしてもらうことになった」と。

新managerは非常に多忙な方で、カレンダーは毎日ほぼ全て会議で埋まっているものの、私の参画に伴い、何度か時間を取って私と話す機会を作ってくださいました。

互いに軽く自己紹介し、仕事での職務内容や期待役割などを確認した後、私は自分がUSに来た理由や今後数年間にわたって自分がこの会社で実現したいことを話しました。その内容は、ある程度準備が整ったら今のチームから異動したいという旨も含んでおり、出会ってすぐの部下からそんなことを言われたら良い思いはしないだろうと思いつつ、自分の覚悟を伝えるためにも率直に、そしていくつかデータや資料を用意し、Amazon風にDocにしたためて説明しました笑

民間企業で国家を代替し得る規模の地域完結型医療介護制度を作る。これが私がAmazon USに来た理由。今、Amazon USでは Amazon Healthcare Serviceという領域が成長しつつあり、その中では、処方箋に基づいて医薬品を配送するAmazon Phamacyやオンライン診療サービスAmazon Clinicなどが展開しています。私はこの領域に経営企画側で参加したいという意思を持っており、私が有するスキルに関連したオープンポジションも散見されます。

「私は今のポジションで確実に結果を出すし、申請中のグリーンカードが取得できるまで最低でも1年、長ければ2年くらいかかると思う。永住に向けたグリーンカード申請中は異動できないことも踏まえ、2年はこのチームでしっかり働くが、私はそれまでに自分の夢の実現に必要なスキルとリレーションを全力で構築する、そして良いタイミングで異動すると思う。」と伝えました。

そして最後に、お給料を早々に上げてほしいと懇願しました笑 今振り返ると、ほぼ初対面の上司にハチャメチャなこと言ってるな私笑 まあでも、ずっと言えぬまま悶々と一人で苦しむより、言いたいことは早々に言った方が良いかな、その方が相手も私という人間を理解しやすいかなと思って正直に本音で話しました。

お給料の話

私はL5のBusiness Analyst(BA)という職種で異動しました。L5(Level 5)は、日本風で言うとちょっとできる係長、新米の課長くらいのポジションだと思います。日本だと、大学卒業後の新卒入社がL4、大学院卒での新卒入社で大体L6です。お給料はBase Salaryだけだと年間10万ドル弱で、この金額に株が追加になります。

Salary Explorerによると、2024年のアメリカの平均年収は年間9.51万ドル、私のBase Salaryとほぼ同じです。分布も中央値も大きく異なる2国の平均給与での比較が妥当かどうかは分かりませんが、国税庁の令和4年分の民間給与実態統計調査では、日本の平均年収は458万円。私の年収だと、「アメリカに来て日本での500万円弱と同等の生活水準で暮らす」というイメージは、結構妥当かもしれません。物価の違いなどを鑑みても、2週間の生活で私はそんな感覚を抱いています。

(2024年4月8日追記)このお給料だと生活水準はどれくらい低いのか。年間10万ドル弱、月約8000ドルとします。私の住んでるBellvueは特に家賃と物価が高く、月額で概算すると、税金1000、家賃2500、車と駐車場1000、各種保険700。この時点で残り2800で、一日100以下での生活です。物価は日本の2~4倍なので、1ドル150円換算しても、100÷2×150=7500円、100÷4×150=3750円で、1日3750円~7500円以上使う生活だと足りなくなるという感覚です。いかに低い給料かご理解頂けると存じます。。。ちなみに、保育園は子供1人あたり月額2500ドル程度です。このお給料では通えません。。。

(2024年4月8日追記)SNSにてご指摘頂きました。アメリカ労働局によると、2023年のアメリカ平均年収は$59,384とのこと。約6万ドル、共働きが前提なので世帯年収にして約12万ドルか。ご指摘頂きありがとうございました!

実は国際異動に向けた面接のとき、本来3回だった面接にData Scientist(DS)のSkill Check面接が2回加わり、私は全てクリアしたので、BAとDSの2職種からオファーを頂きました。そのとき提示されたDSのBase Salaryは年間20万ドル弱+株、BAの2倍です。

役割の話

ただし、BAとDSは根本的に役割が違います。共通してデータ分析を扱いますが、DSは非常に高度な分析業務に特化し、主にプロダクトの性能向上に焦点を当てます。対してBAは、プロダクトのみならずオペレーションや複数チームをまたいだ組織、社内外の市場動向にも焦点をあて、定性的な情報整理も行い、上流工程での重要指標のブレイクダウン、目標達成に向けた新指標作成、既存業務改善、新規事業立案、PJ立上げ、その後の進捗管理やリスク検知までを幅広く担います。部門や組織のBS / PL、オペレーションの実務、プロダクトやデータ周辺の現状とあるべきを常に理解・調整し、優先順位とステップ、タイムラインを決めて複数のストーリーをLeadershipsに提案・実行します。

非常に裾野が広く、それ故に専門性も曖昧で、でも総合格闘技的な「結果を出した人が勝つ」的な戦い方ができます。まさにownershipとcommitmentと試行錯誤の数だけで全てを解決する発想の人間にはピッタリの職種です。

上流を担うという意味では、スコープ面で戦略コンサルに近い感覚かもしれませんが、外コン出身で今までBAとして働いてきた私の所感として、これほどまでに現場にも入りつつ各チームの上層と現場を繋いで組織を方向づけることができるのは、GAFAMでのこの職種の醍醐味なのではないかと思う次第です。コンサルではここまで業務に深く入り込んだり全体を方向づけるようなことはできなかったといつも思います。

上記の役割の違いと私が思う将来のキャリアを踏まえ、私はDSではなくBAのオファーレターにサインしました。しかしお給料の話もあり、今後妻子を養うことも考えると、自分で決めたとは言え、このお給料だとキツイなと思うのも正直な気持ちです。。。

上司の返事 – お前をUSに連れてきた理由

上記を全てDocに込め、最初に読む時間を取ってから話を始めました。特に医療介護の話には社外のリサーチ資料やappendixも色々入れたので合計6ページ。当初は冒頭15分のreading timeを取る予定でしたが、上司は読み込むのにもっと時間が欲しいと何度も繰り返し、結局30分読んだ後、30分議論という流れで話しました。

上司はまず、テンプレ通り非常に褒めてくれました笑 とはいえ、彼は私が本気で医療介護分野に携わりたいという思いを理解・支持してくれたようで、「自分のキャリアを大切にし、自分で責任を負って作り上げること」を良しとしてくれました。そのために異動や役割の変更が必要だと感じるならいつでも遠慮なく言ってほしい、と。また、給与を上げたいなら早く結果を出してプロモーションしろ、DSのポジションは他の人の採用決めたからもうクローズしたよ、と笑

その後色々話してくれましたが、私をUSに連れてきた理由にはとても感動したのでここに書き残します。彼はこんなにも忙しいのに、私のhiring managerを担当してくれた方と一緒に私の過去のマネージャーやその関係者と話しまくって結構ガチに私を調べ上げ、そして採用を決めてくださったようです。

数年後までを見据えた部門の持続的成長と目標達成に向けて、全体最適を担える人が欲しかった。だから、国内だけではなく国際異動可能にしてポジションをオープンし、世界中から人材を探していた。」と。

当時、私はこの部門の日本の組織に参画して2か月ほど。部門に関する知識習得や国内外の人間関係の構築は殆どできていなかったにも関わらず、私の採用を判断した理由は、私が過去、他部門にて浅く広い知識と強いownershipを持ち、Finance・Product・Data・Ops・SalesとLeadershipという個々に全く異なる価値観・文化・優先順位・リソースを持つ利害関係者を調整し、一つの方向性を示して実行できたからだよ、と。この裏をとるために、過去私に関わった同僚・上司・別部署の関係者約20人から私についてヒアリングしたとのこと。

「だからお前の性格や今後の改善点もある程度は理解してるし、結果を出す上で必要になるだろうサポートもある程度想定している」と仰ってました。

その上で、「今私達の部門には、全体最適に向けた方向性と具体的なアクションが必要だ。各チームが各プロダクトや各々が持つMetrics(重要指標)の改善を目指すあまり、あっちを良くするとこっちが悪くなり、チームごとの対立軸が生まれてしまっている。また、組織内外に改善余地を見つけることが不十分で、成長目標の達成に向けた方向性や具体的な施策が検討できる状況にない。これを解決するために、調整と方向性の提示、その実行をやってもらうために、お前を日本から連れてきたんだ。」

所感 – 期待、高すぎん?笑

上記の内容のお話を頂きました。私の拙い英語の理解力で間違いがなければ笑 正直に言うと、非常に嬉しかった半面、「期待レベル高すぎません?」と思いました笑 L5のBAにそんな思いを乗せてくれているとは。嬉しいような、でもプロモーションまでは遠いような。。。笑

ただ、こういう話をしてもらえると、俄然燃えます。プレッシャーはあるもののそれをクリアしたくなるもんだなと。きっとこの記事は、1年後や私がこの部門を異動するとき(あるいはパフォーマンスが足りずクビになったりレイオフされたとき笑)に読み返して、当時を回顧しながら精進を続けていくのだと思います。そうであってほしい。。。未来の自分に期待。

(追記)母へ

この2週間で最も重要なイベントを書き忘れていました。怒られそう。。。笑

参画から1週間を終えた金曜日の夜、疲れ果ててベッドに入ると、亡き母が夢に出てきました。何を話したか覚えてはいませんが、久しぶりに会えたような感覚がありました。

母は、私が30歳になった2週間後、肺ガンで59歳で亡くなりました。肺ガンを一番最初に見つけたのは放射線科医の父で、母が数年前からひどい咳をしていたのを心配し、自分の勤める病院を受診させ父自身がMRIで撮影した際に肺にガンを見つけたそうです。見つかったときには既にステージⅣB、転移が認められており、余命は殆どないことを悟った父は、読影室で暫く一人で泣いてから、母に直接告知したそうです。

その後、父は必死に母の延命策を探しました。そこで当時の先端医薬品の一つ、分子標的薬の一つに母に対する適性があることが分かり、普段感情をあまり表に出さない父は歓喜していました。母への投薬にあたり、父、兄、私同席のもとで母は説明を受けます。母も必死に生きたいと願っており、私達家族は藁をも掴む思いでこの薬に頼ります。

結局、母は一度は寛解に至り、投薬時点では自力で歩けなかったところから、普段の生活を送れるようになりました。父は母と一緒にエジプト旅行に行ってくるなど、本当に生き返った母と非常に楽しい時間を過ごしました。

しかし、夢のような時間はそう長く続かず。母は徐々に弱っていき、定期検査で再発が認められ、私が30歳になる2日前、母は倒れて救急搬送。体中の血管が血栓だらけで、その一部が脳まで行って脳梗塞を発症し、失語症、記憶障害と下半身マヒが認められました。

当時はコロナど真ん中の時期でしたが、主治医も母がもう殆ど生きられないことを悟り、私が付きっ切りで看病にあたることを許してくれました。母は、自分の置かれた環境に絶望し、その2日後に自分の息子が30歳になったことを知ると、歓喜の直後に泣き崩れ、必死に「生きたい」という素振りを見せました。もはや会話ができなくなってしまった母に、私も何度も泣きながらも一緒に寝泊まりし、一緒にリハビリに付き添いました。

絶対元通りに回復し、もう一度エジプトに行きたいと意思表示していた母。絶対に治すという意思を貫く中、2週間後に亡くなりました。最後の夜も私が付き添い、もう持たないと悟って家族全員を電話で呼び出し、母が意識を失って徐々に呼吸ができなくなり完全停止する姿を家族全員で看取りました。

「感謝を伝えたいときに、伝えたい相手が必ずしも近くにいてくれるとは限らない」。これは、私の結婚式で、披露宴の最後の挨拶にて私が述べた言葉です。私は20代後半になるまで、常に自分中心で人に感謝ができるような人間ではなく、母はきっと私の教育や子育て方針に苦悩したと思います。

ようやく感謝できるようになった私は、これまでお世話になった人に思いを伝えるべく結婚式を準備しましたが、式の2か月前に招待していた祖母が亡くなり、あの言葉に至りました。

母の死から3年。沢山の苦難を乗り越え、私は自分の意思を貫いて単身アメリカまでやってきました。絶対に諦めない心は間違いなく母がくれたものだし、きっと私のここまでの苦労が報われたことを一番喜んでくれたのも母だろうし、きっと今後の活躍を一番楽しみにしてくれているのも母だと思います。

直接会って伝えることができなくなってしまったけれど、実績と成功を以て母に感謝を伝えられるよう、引き続き精進致します。

タイトルとURLをコピーしました