日頃から現象に興味がある私は、その発生要因の中で自分自身でコントロールできることを普段から良く考えています。中でも自分一人でコントロールできる「スキル」や、それを支える「教育」「訓練」の手法とそのメリット・デメリットは、子供を育てる父親としても深く関心を持ち、かつ責任を感じている分野です。
能力開発に関して私が考えていることの整理・備忘のために、シリーズ化して雑記のような形式で書いていきます。この記事はその第1回です。
「人類のアップデート」
「人類のアップデート」は、私が学生だった時にお話しした意識高い系の若い経営者の方が飲み会の席で仰っていた言葉です。その方が就活に際して企業に就職せずに起業した理由として述べた言葉で、漠然と「全人類に対して何等かの形でプラスになることをしたい」という使命感があるという意味だったと記憶しています。なお、その方は数か月後に借金で会社倒産・消息不明と聞きました笑 アップデートの前にこれまでの人類の基礎である「信用」を理解すべきだったと思います。
ただ、人類の「何をアップデートするか」「どうアップデートするか」は、その方と話して以降今日に至るまで、私もずっと考えるようになりました。これまでにない教育・訓練を施すのか、これまでにない理解や発想をできるようにするのか、これまでにない成果を得るか、これまでにない人間関係や地位を得るか。
未来に起こるアップデートは、目指す状態や定義によって様々に解釈され得ると思う一方で、私はこの議論の最初に、過去起こった人類のアップデートを考えることから始めました。
過去の「人類のアップデート」
このことを考える上で、私は過去に起こったアップデートを考えることから始めました。そしてこの検討過程で、「人類の生産性、人生設計、人生観を一変させたもの」を漠然と対象に考えるようになりました。
例えば「時計」と「工場」と「鉄道」。いわゆる近代化の中で、それまで農業をメイン産業としていた人類が農家から労働者になり、「決まった時間に決まった場所に移動・集合して決まった労働を行う」という生活スタイルが産まれた結果、人類は「農業中心、血族単位」の共同体人生設計や人生観から徐々に脱しました。人々の繋がりは希薄になり、太陽ではなく時間に基づいて生活するスタイルに変わり、賃金の伸びから生涯年収を計算して貯蓄や投資を行うようになりました。また、「労働者」という階級が生まれて団結し、新しい共同体意識を生みました。
例えば「割賦」、つまり分割払い。近代以降だとミシンや農業用の機械、ピアノ、車、住宅といった庶民向けの高価な商品向けに活用されたそうで、この制度により私達は自分の欲望を拡張できるようになりました。
1850年代以後、ミシンのシンガーや農機具のマコーミック(現在のケースIH)などが次々にこの方式を導入し、潜在需要はあるものの経済的事情によって購入が進まない商品の販売に役立つことになった。1919年にはゼネラルモーターズが割賦販売専門の金融会社を創設するなど、一般家庭にも割賦販売による耐久消費財の購入が進み、1920年代のアメリカの消費文化を支えることとなった。
(中略)
こうした販売方式は西日本や上方で知られるようになり、明治に入り割賦販売を専門的に行う月賦百貨店が成立した。月賦百貨店は当初は西日本を拠点としていたが、大正期に入ると東京方面にも進出を開始した。 小林一三は1910年に新しく開業する箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の沿線の池田にて月賦販売による住宅の分譲販売を行い成功を収めた。 1923年の関東大震災後の再建とアメリカの割賦販売による消費文化の情報到来が重なったこともあり、1920年代には新興中産階級を中心に割賦販売による耐久消費財の購入が盛んになった。
太平洋戦争開戦後、経済が統制され割賦販売はいったん姿を消す。だが、戦後になると国民の物への渇望、朝鮮戦争を契機とした特需による景気の回復、物価の安定などを背景に割賦販売は再び息を吹き返す。衣類不足を背景としたミシンの前払い式割賦販売など、耐久消費財を中心に割賦販売は盛んに行われていく。
その後、割賦購入あっせんの発達に伴い、割賦販売は下火となっていく。また、前払い式割賦販売は当該販売を行っていた企業への倒産懸念などから割賦販売法により規制されるようになった。
出典:wikipedia「割賦販売」
例えば、「私有財産制度」。昔はみんなで買ってみんなで使っていたものが、所有権が明確になり、他者に対して排他的になる。
中世ヨーロッパの生産性を向上させた重量有輪犂(ゆうりんすき)は、重いため牛に引かせて土地を耕す鉄製農具ですが、重くて旋回するのが大変なため、とりあえず農地をまっすぐいけるところまで行きます。私有財産制で人々が自分の農地は自分で耕す制度なら、各々が自分の土地だけを個別で耕すことになり、また、自分の土地で収穫した食べ物は自分の財産として所有し、それを侵害したものには罰則を与えることができるようになりました。
なお、直近10年ほどの社会ではカーシェアやサブスクといった、企業が担保する形でモノを人と共有するサービスが生まれており、個々人が所有する必要のないという考え方も生まれつつあると感じます。
現在進行すべき「人類のアップデート」
上記の「人類の生産性、人生設計、人生観を一変させたもの」という定義で現在に視点を戻します。私は一人の労働者であり父親として、現在の社会変化に対して非常に敏感です。時は大AI時代。学生のころから感じてきた「こんな業務、全部自動化できるじゃん」という不満は、正直全部自動化されそうな未来が見えており、ワクワクしつつも不安でいっぱいです。ChatGPT等のLLMを触っていると、既存の業務を人を遣わず全自動化できると常に確信すると同時に、このままだと自分の業務は自動化されて無色になりそうだとも感じます。
私は「優しさ」とか「共感力」といった人間の人間味ある側面を非常に重視する一方で、成果主義は一貫されるべきであり、かつ常に世界は効率化される方向に進むという世界観を持っています。経営者は既存ビジネスや既存業務の合理化・効率化を目指し、人件費より安く低リスクな機械・ソフトウェアに置き換えて自動化してコスト削減を試行します。機械や仕組みに代替されていくので、労働者も効率化を強いられ、先人と同じようなことしかしない人の賃金は常に低下し、採算が合わなければ解雇される。抜本的な業務・組織変革やイノベーションを担わない労働者は、作業を行う上で常に「前より早く」「前より高品質で」「前より少人数で」「前より広い業務範囲を」こなすことが求められます。
「給料が上がらない」という嘆きは昨今の日本社会では良く目にしますが、そりゃ昔と同じ業務を同じスピードで同じ品質でやってたら、経営者はどんどん効率化してコストを下げるんだから、賃金は昔にくらめて下がるか横ばいでしょう。同じ時間で2倍の業務量をこなしたり、全く別の業種の仕事も並行してこなせるようになったり、10人でやってた作業を1人でできるようになったり。
「ゴールドマンサックスのトレーダー部門600人が解雇されエンジニア2人になった」という実情不明な話をコンサル時代の上司が使っていましたが、そういう緊張感・スピード感を持って生きるべき時代に生きていると思っています。詳細は下記参考記事をご覧ください。
参考:ゴールドマン・サックス、自動化でトレーダー大幅減3割がエンジニアに – MIT technology Review 2017年2月8日
このようなご時世において、人は生まれてから死ぬまでの時間対効果、費用対効果を常に向上させることが求められており、子供を育てる一人の親として、子供に施すべき思想とトレーニングには非常に気を遣いながら日々考えています。
こうした緊張感・スピード感がないとどうなるか。死にます。イギリスの産業革命で綿布が大量生産・販売された結果、職を失った綿布職人の骨でインドのデカン高原が白くなったと言われます。
イギリス綿業は、19世紀の20~30年代から本格的に世界市場へと進出しはじめた。綿製品は、はじめはヨーロッパ大陸諸国に輸出されていたが、それらの諸国で綿業が発展してくると、次第に後進国に市場を移しはじめた。とくにインド市場の比重は、1840年の18%、(中略)1860年の30%と急テンポで増えている。インドからイギリスへの輸出額と、イギリスからインドへの輸出額とは、すでに1814年に逆転し、いまや攻守ところをかえていた。機械制大工業によって生産された安い製品は、とうとうとしてインド市場に流れ込み、その圧倒的な競争力をもって、手工業的な綿布生産を破滅させることになる。
もともと、インドの村落共同体は、土地の共有、農業と手工業の結合、カースト制度による固定的な分業に立脚していた。(中略)東インド会社の土地政策は、私的所有と金納地租とを導き入れることによって、この村落共同体を破壊しはじめていたのであるが、そこへ追い打ちをかけるように、安い綿製品が流れ込んできた。農民の手紡・手織はたちまちにしてすたれ、家族は失業と飢餓のどん底にたたきこまれた。(中略)同じ頃のインド総督もまた、「この窮乏たるや商業史上にほとんど類例をみない。木綿織布工たちの骨はインドの平原を白くしている」と述べたのである。
出典:吉岡昭彦『インドとイギリス』1975 岩波新書 p.84-86
アップデートで人類は効率化から解放される未来は来るのか
経済学者ケインズは1930年に『孫たちの経済的可能性』を出版し、100年後には1日3時間程度の労働で生活に必要なものは手に入り、人類はむしろ余った時間の過ごし方に頭を悩ませることになる旨を述べていますが、これに対する各社・各論客の考え方はそれぞれ非常に面白いと感じます。
ケインズが思い描いた2030年は経済問題が解決され「働かなくてもよくなる」未来でした。一方、米コンサルティング大手のマッキンゼーが描く予想図は働きたくても「働けなくなる」未来です。
AIやロボットによる代替が進み、世界の労働者の3割にあたる最大8億人の仕事が失われるとマッキンゼーは予測しています。労働者の武器が若さや肉体ではなく、スキルや知識にシフトしていることの表れだといいます。
ケインズとマッキンゼーはそれぞれ正反対の未来を描いているのでしょうか。実はどちらも共通項があります。それは資本主義が前提としていた、長く働けば働くほど価値を生んでいたモデルが崩壊したことを認めている点です。
出典:NIKKEIスタッフ 2030年、1日3時間働けば社会は回るはずだった。
ところが現実には経済的問題はなくなっていないし、日本の法定労働時間はいまでも1日8時間だ。1日3時間働けば生活ができるという世界は実現しそうにもない。
確かに、AI(人工知能)の発展によって機械が何でもやってしまうので人間がやる仕事はなくなる、という議論もある。だがAIの発展の恩恵に浴する人は、働かなくても所得が入り生活することができるようになるが、そうでない人は、働いて所得を得る場がなくなり、生活を支えることができなくなるという懸念がある。これはケインズが予想したような、少しの労働時間で誰もが生活の心配をしなくてよくなるという世界とはまったく異質なものだ。
未来のことはともかく、現在でも実質消費は1930年当時の6倍以上になっている。それでもケインズの予想が実現しそうな気配すらないのはなぜなのだろうか。いくつか原因が考えられるだろう。
第1に、所得の上昇に伴って、われわれが考える「生活に必要なもの」の水準も高まったことがあるだろう。人々が最低限と考える医療や公共サービスの水準は、現在では1930年当時に比べてはるかに高くなっている。
(中略)
第2には、「最低限の生活」をしようと思ったとしても、「高級なもの」を購入せざるをえず、最低限度の生活をするコストが上昇してしまっていることだ。
出典:東洋経済 「ケインズの予言」の当たりとはずれの理由
上記の東洋経済の記事でも言及されているように、100年前に比べて私達の実質消費は6倍に伸びたものの、私達は未だ8時間労働(+残業)でヒイヒイ言いながら働く生活を続けています。スマホもPCもない当時と比較して、今は生きていくのに必要な生活水準も合わせて上がっています。電波のない森の中、いつまでも磨製石器を使って農耕しながら竪穴式住居で生活するなら、今の生産性でも十分なのでしょうが。そんなわけにもいきません。
私達の子供たちは、今から20年後や30年後の生産性の中で戦う必要があります。その時代、訓練や教育はどのような手法になっているのか。私は文字通り「強化人間」の類になっていると想像するし、そうあるべきかなと思いながら子育てに励みます。
出典:映画『マトリックス』のように脳に直接情報を供給する技法が開発される(米研究)
映画『マトリックス』には、トリニティがヘリの操縦手法という技能を「インストール」して一瞬にして操作可能になるという描写がありますが、私のイメージはそんな感じです。技能はいずれパッケージ化されて瞬時にダウンロードして獲得するか、既に学習済みの特化型AIを引っ張ってきて特定の業務をこなしつつ、自分はビジネス戦略を実行するような緊張感・スピード感。
そんな時代、いつまでも日本の学歴主義にこだわってお受験勉強に励むのは時代遅れだと感じるし、「教養」レベルの幅広さを身に着けることより、幼少期から特定の領域で既存AIよりも高いパフォーマンスを発揮するか、複数の領域を繋いで既存の汎用AIには実現できない価値を発揮できることの方がはるかに重要でしょう。
最後に。天才的な世界的サッカープレーヤーの『メッシは何才からメッシなのか』は私の中で興味深いテーマでした。あの圧倒的なドリブルとボール支配力、状況判断。これらの技能において、いったい彼はいつから突出していたか。
答えは、幼少期から。つまりは小さい頃から職人的に打ち込んできて、今の支配的ポジションを確立します。今の世の中でもそうなのだから、20~30年後の子供たちにも幼少期から戦い方を教える必要があるのでしょう。それこそ、私が早期教育にかける思いであり、人類のアップデートを夢見る気持ちでもあります。