自己紹介:浪人生~社会人

プロフィール

私は結局、2年間の大学受験浪人と2年間の休学を経て、普通の人より4年遅れて社会人になります。

この4年の遅れは、自分の人生に正面から向き合い、とにかくがむしゃらに精進した時間でした。

浪人時代

浪人生をスタートしたとき、私はFXに出会いました。実際に勝てるようになったのは数年後ですが、将来良い大学に入って労働者となり一生働き続けることを嫌い、人とは違う生き方を求めて、この道で生きるためにデモトレードで死ぬほど練習しまくります。

当然勉強に身も入るはずもなく、浪人生活1年目は失敗します。また、このときはFXでも結果が出ず、正直人生について露頭に迷っていた時期でした。次の4月からどう生きるべきかを思い悩んでいた3月、私はふと立ち寄った本屋である教授の存在を知ります。

社会保障政策を専門とするその教授の仰ることは、私が大学受験の政経で学んだこととは全く違っており、例えば政経で習う「日本の公的年金政策は政策が社会変化に対応できず、積立方式から賦課方式という自転車操業になってしまった」という話に対して、この国の税や保険料の徴収スタイルや政治的日系を踏まえ、私の知らない様々な視点と長期的目線から論じていらっしゃいました。

この教授に師事したい。この本に自分が全く知らない世界を感じ、知的好奇心に再び火が付いたように感じました。私は親に頭を下げてもう1年浪人し、大学に合格しました。

大学生時代

大学入学書類のための顔写真を撮影しに近所のヨドバシカメラに行った帰り道、大きな揺れに襲われます。2011年3月11日、東日本大震災。帰宅してテレビをつけた際、街が津波に襲われる生中継は今でも鮮明に覚えてます。

入学式が延期になる中、いてもたってもいられなくなった私は、3月末に道路が開通したタイミングで仙台の親戚をサポートに行き、その流れで被害の大きかった石巻・女川を訪れます。私が現地に行った数日後に自衛隊が現地に拠点を作り始める、といった時期でした。

画質荒すぎだけど当時撮った写真。津波が全ての日常を破壊し、海水が引いた中に遺体が浮いているような状態でした。今でも忘れられない光景の中で、私は自分ができることをしたいと考え、現地でボランティアを始めます。最初の仕事は遺体の水揚げ・安置所への輸送。今でも匂いや掴んだ感触は忘れられません。

5月から始まった大学生活は、2年間の遅れを取り戻そうとウズウズしていた私にとって非常につまらないものでした。キラキラ感より、薄っぺらい時間密度に嫌気がさした私は、大学を2年休学して被災地支援や自分がやるべきことに専念することにします。

被災地支援では、スタディツアーという形で現場に人を送るコンテンツを作り続けました。例えば、震災1年後頃に作ったツアーは、東京から20名ほどの大学生や社会人を深夜バスで石巻に連れていき、①震災発生直後を支えた医療現場や医療当事者との対話、②発生後1か月~1年の教育現場を担った方々や子供たちとの触れ合い、③街づくり復興協議会の委員の方々との今後の復興に向けた意見交換 というコンテンツを1泊2日で組みました。

時間が経つにつれ緊急性も薄れ、報道も減り、被災地への関心が薄れる中で、「ちょっと現地を見てみたい」という好奇心を現地への関わり方を模索するような当事者意識に変える施策を実施し続けました。その結果は、残念なことに全体的な流れを変えるものではありませんでしたが、私自身も、人々の暮らしや社会の在り方を考える非常にいいきっかけになりました。

被災地にほぼ常駐するような生活になる中で、同時に力を入れたのは読書。週1か2週に1回くらいで大学近くに構えた部屋に戻り、大学の図書館で少しでも興味のある本を片っ端から借りて、暇さえあればいつでもどこでも読みました。当時自分で決めていたルールは「平日1日3冊以上、その中で必ず週に専門書1冊以上」、これが終わるまで寝ないこと。また、被災地で出会ったNHKの方から、「NHKではどんな番組も企画段階でA4一枚にまとめて提案する」と教わり、読んだ本をルーズリーフ表裏1枚にまとめる、という修行を始めました。

大学図書館からの貸出履歴は、就活時の大学3年生4月に撮影した上記写真では2141冊ですが、私が卒業式の日に確認した際は3008冊。特に卒論の追い込み時期は死ぬほど借りて読みました。この修行により、自分で言うのも難ですが、非常に博識になりました笑 各分野に専門家ほど詳しくないものの、教養レベルでは非常に多くの領域をカバーできるようになりました。

こうした中で、高校生・浪人生の時に自分が続けてきた受験勉強と、大学に入ってインプットした知識が頭の中でものすごいスピードで繋がっていくのを感じ、「勉強法」と同時に「情報の整理」の必要性を感じます。ここで出会ったのが、「図解」の技術です。

上記2冊の本と出会い、私の脳内での情報獲得・整理のスピードはかなり向上します。ふとした瞬間に、「これは非常に賢くなったのではないか?」と感じ、受験生時代に受けてた模試を受け直してみました。

結果はこの通り。手元に残ってるのはセンター模試の結果だけで、センター本番や東大前期の合格通知は母が大切に保管すると言ったまま紛失したみたいですが笑、他も含めて河合、代ゼミ、駿台、東進で無双状態でした。また、知識が長期記憶として定着していく感覚があり、おそらく30歳を超えた今でも共通テストで9割以上とれるだろうし、今年東大受けても文Ⅱや理Ⅰなら受かると思います。

次第に私は、自身の勉強法を誰かに教えて再現性を高めたいと考えるようになります。大学生の時期はずっと塾講師としてバイトしておりましたが、多くの塾に在籍して小学生から高校生を教えつつ、理想の教育法を模索しました。

中でも、複数の有名な全国チェーンの塾にて難関中学受験の算数と理科を担当しました。また、0歳から右脳を開発する幼児教育手法を小学生まで応用しようと試みたベンチャー塾から、逮捕歴・精神障害を抱えた子供たちの避難所のような機能を持っていた個別指導塾まで。この時の経験は下記記事で詳述しますが、教育手法に興味があった私には非常に貴重な経験でした。

最後に、憧れて入った社会保障分野の研究室では、経済学をベースとして政策を検討する手法を学ぶのですが、教授は常に「考えろ。とにかく考えろ」としか言わず笑、自分なりに根拠と意見をまとめていくことに非常に苦労しました。ただ、その中で得た大きな成果として、経済学には大きく分けて二つの考え方が異なる流派が併存し、どちらが正しいかを明らかにすることは非常に難しく、社会保障分野で180度異なる政策が提案・議論されるのはこうした根拠となる学問が違っているから、ということ。加えて、大規模な予算が動く同分野は、関与する利害関係者による思惑が常に強く働き、必ずしも最適解を選択することができないこと、国民を扇動する情報戦に常に晒され続ける現実を知りました。

当時の学びは、いずれこのブログでまとめていきたいと思います。私は社会保障分野について、日本国民の上位3%くらいには解像度が高いと自負しております笑

就活~社会人

2浪と2休を経て、普通の人に比べて4年遅れた状態での新卒就活でしたが、正直無双できました笑 これほど強力なバックグランドとガクチカ(学生時代に力をいれたこと)を持った学生は少なく、SPIのようなwebテストも、その後の面接もかなり強気で望めました。大して考えずに、お給料高そうだしカッコいいからという理由で外銀・外コン中心で受けてましたが、落ちたのはゴールドマン・サックスの4回目の面接で相手の英語が全く聞き取れずに会話が成立しなかったときと、BCGのインターンでどうしてもグループメンバーとそりが合わず良いアウトプットを作れなかったときくらい。

ただ、なんとなくコンサルに行きたいという考えは以前からありました。被災地で支援を始めた頃、現場はぐちゃぐちゃでした。みんなが悲しみ、そして生活基盤を失って今後の生活が見えない中で、不安定で攻撃的になりました。この状況は、仮設住宅群の建設が進む中で次第に落ち着くものの、復興計画の検討が本格化する中で再燃します。どこに街を作るのか、復旧ではなく復興という意味での以前より良い要素をどのように取り入れるのか、などなど。

この状況下、ある外部から入ってきたコンサルの方が一部要件をきれいに取りまとめ、議論をまとめ、次のステップに向けて住民を動かしているのを目の当たりにし、非常に心を打たれました。こんなにスマートに社会を変革するなんて。

また、社会保障や歴史を学ぶ中で、一企業に属して世界を変革するより、複数企業が属する業界・業種を変革しうる大きな仕事をしたいと漠然と考えるようになり、コンサル業界や銀行業界に憧れていました。

最終的に外資コンサルを選び、上記の壮大な目標に向けて大海に漕ぎ出すわけですが。。。夢破れて山河あり、といった感じです笑 今も五里霧中でもがきながら生きてます。

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