自己紹介:小学生~高校生

プロフィール

小学生から高校生までの私は、今から振り返ると結構黄金期でした笑

周りの意見を気にせず、常に自分がやりたいことを一心不乱に打ち込み、そして成果を上げる。一方で高校生くらいになるとその立場に有頂天になり、精進することなく衰退していく。今過去を振り返ると、この時期は1980~2000年代の日本の経済力のようでもあり、在任中に絶頂と衰退を経験したインノケンティウス3世時代の教皇権威のようでもあり。

インノケンティウス3世時代に絶頂と衰退を迎える教皇権威。こちらから引用

小学校時代

小学1年生の入学式から1週間経たずして、私は不登校になります。理由はいたってシンプルで、クラスの中で唯一私だけが平仮名を書けなかったからです。

周囲の子は幼稚園で多かれ少なかれ平仮名を学習しており、鉛筆の使い方も慣れている中、幼稚園ではひたすら砂場で遊んでた私だけが全く書けず。30歳を過ぎて実家を処分することになり、昔の書類を整理してた中で見つけて今でも覚えているのは、平仮名の「く」を練習するプリントで、四角いマスにうっすらと書かれた「く」をなぞるようになっている中、私は全てのマスに「>」と書いており、先生が「もうすこしがんばりましょう」というスタンプを押してくれてました笑

そんな最悪なスタートを切った小学生生活ですが、幸いなことに私は2週間ほどで学校に復帰します。そのきっかけを作ってくれたのはJamieというアメリカ人男性。確か当時20歳前半。

彼は当時の呼称でAET(Assintant English Teacher)として来日し、私の小学校で高学年の英語の授業に参加しており、私の家がヒッポファミリークラブという国際交流団体に所属して外国人のホームステイを受け入れたりしていたご縁で、よく私の家に遊びに来たり泊まったりしてました。

Jamieは日本語が喋れないものの子供好きで、よく私の相手をしてくれました。私もヒッポのおかげで幼少期から家に外国人が沢山出入りしてたことで抵抗なくJamieと仲良くなり、彼に誘われるような形で小学校に戻ることができました。今思うと、彼がサポートしてくれなかったら、私は不登校児のまま今とは全く違う人生を歩んでいたのかもしれません。

学校に戻って間もなく、私は「漢字ドリル」にドはまりします。よくある長方形の形をした練習帳です。

なぜか私は字を練習することにハマり、1年かけて使う漢字ドリルを誰よりも早く終わらせることに執心し、そして、ほぼ毎週行われた授業内の漢字テストは常に100点満点じゃないと気が済まなくなりました。

この謎の行動は中3まで続き、毎年、年度初めの4月に渡される漢字ドリルを4月中に終わらせることに命を懸けていました。また、漢字テストの結果上位者は毎回クラスの壁紙に張り出されており、私は毎年通年1位であることに固執し続けました。

こうして言語に順応した私は、新聞やテレビを通じて社会に興味を持つようになり、読書感想文や社会の壁紙新聞で自分の考えを発信することが好きになりました。

一方、筆者の気持ちを考えたり、文章を要約したりする能力は文字通り皆無で、小学5年生のときに一瞬だけ中学受験クラスの夏期講習に参加した際、国語の授業が全く意味が分からず、テストでたまたま家にあったマンガの影響で覚えてた慣用句の問題だけ分かって100点満点中2点だったこともありました笑

なお、祖父のスパルタ体力教育は継続しており、毎朝5時に起きて兄と一緒に家の周囲を走りました。私と兄は体力バカになり、年に1回の学年別持久走では二人とも学年1位をとったりして祖父を喜ばせました。

小学生中の変化といえば、小1の2月から兄の影響でサッカーを始めました。さんざんスパルタ教育を受け、練習量こなすことには全く抵抗がなく、平日の休憩時間も、学校終わりも、土日もずっとサッカーしてました。

何より、学年が3つ上の兄の友達と一緒に遊ぶことが多く、サッカーや外遊びのときは常に体力も体の大きさも段違いな彼らと闘うことになり、子供ながらに頭を使いながら日々励みました。

中学校時代

中学受験をせず、地元の公立中学校へ進学しました。

小学校高学年以降、中3までサッカー部の副キャプテンになり、ディフェンスの要としてチームを支え、県大会ベスト4くらいまで行けました。

また、私は本当に体力バカになっており、中学生になると毎年実施されるスポーツテストでは毎年、県の上位を争ってました。確か20秒間の反復横跳びで80回越えてたのは私だけだった気がします。50m走は6.3秒台、1500m走は4分50秒台、握力は両手とも60kg以上とかそんな感じでした。全て過去の栄光です笑 なおハンドボール投げは30mくらいだった気がします笑 肩を使う球技は総じて苦手でした。

死ぬほど怒られながら続けていたバイオリンは、右肩に結構大き目の腫瘍ができて右肩が上がらなくなり、中1から計4回手術して弓がうまく動かせなくなったりといったことや、中2のときに先生がガンで亡くなったことから、徐々にフェードアウトします。

中学校時代の自分を振り返ると、文字通り「傍若無人」でした。本当に悪い意味で人の気持ちや考えを読み取ることができず、自分がやりたいことしか目に入らず、殆ど友達もおらず、客観性の対義語のような存在でした。

そんな生き方は却って幸せで、他者に何か言われても全く耳に入らず、ひたすら自分のやりたいことだけに集中する。社会人になった後に当時を知る友人に言われたのは、「そういう障害持ちだと思ってた」という言葉でした笑

中学生当時、私はクラスのやんちゃな男女からいじめられていたらしいのですが、それを自覚したのはなんと高校2年生になったとき笑 ふとした瞬間に、そういえば中学生時代に上履きを隠されたり自分の机に彫刻刀で「死ね」と彫られていたりしたことを思い出したのですが、中学生当時は一瞬でその記憶が脳のどこかに格納され、それが顕在化するまで2~3年かかりました。

少し話は逸れますが、私の中学校は当時荒れに荒れており、ほぼ毎日警察が来るどころのレベルではなく、学校で喫煙、授業中にバイクで廊下を爆走、ガラスが割られまくる、体育館裏でリンチ、殴りこんできた他校の不良を消火器で粉まみれにする、夜中に校舎に忍び込んで花火やエアガン使ったサバゲー、理科室のガスバーナーで焼肉、といったことは日常茶飯事でした。私は上記のようにサッカーとお勉強だけに打ち込でて、いじめてもつまらない人種だったため、逆に不良な諸先輩方からはあまり目を付けられなかったのかもしれませんが、今思い返すと結構ヤバめな学校だったと思います。

極めつけは、一時期保健室に助産師さんがほぼ常駐してた時期がありました。「14歳の母」は私にとってドラマではなく日常でした。小学校のころ仲良かった女の子が中学校に入って悪く染まり、不良の男たちに囲まれながら自分の赤ちゃんを抱えて登校し、毎朝生徒指導課や体育科の先生方と校門で揉めている風景を目にしました。

こうした環境下、私はサッカーとゲームに明け暮れ、大して勉強もしなかった結果、学業の成績は非常に落ち込んでおり、「兄と同様に東京の高校に行きたい!」と豪語してたものの、兄の高校の偏差値71に対して、中3の12月時点の模試で偏差値50台前半。塾の先生も諦めながら「悔いのないようにやりなさい」と仰ってくださっていました笑

しかし結果として、中3の1月後半~2月前半の私立・公立の入試において、私は偏差値70~73の高校に立て続けに合格し、当時通ってた塾でも「成功した人」的な扱いで合格体験者発表会に沢山呼ばれました。あのときは本当に有頂天でした笑 誰もが失敗を確信していた中、私はそのことに全く気付かずひたすらに勉強を続け、目標を達成したからです。

振り返ると、私は中3の8月に部活のサッカーの関東大会出場をかけた試合に負け、部活を引退してからは勉強するマシーンと化していました。公立高校も視野に入れていたため、内申点を考慮して2学期まではちゃんと学校に通ったものの、常に塾の勉強を優先し、冬休みは登校せず毎朝5時起床、24時就寝、その間は毎日同じ時間にご飯を食べ、塾に行き、問題を解き、家に帰って風呂に入って寝るというサイクルを繰り返しました。

この時代から学ぶことは、「フロー状態」です。フロー状態に関しては別の記事で私見を述べますが、振り返れば砂場で遊んでた頃やバイオリンの練習時は常にフロー状態だったし、モンテッソーリ教育にメリットがあるとすれば、この状態を作りやすいことなのかな、とも思います。

高校生時代

高校生は、私の衰退期にあたります笑 これまで積み重ねた成功に胡坐をかき、貯めてきた信用やスキルを食いつぶしてしまったように感じます。とは言え、この当時は日々本当に楽しく過ごしました。従って、楽しい・充実した時期とは、常に兜の緒が締まっているか確認する必要があり、その仕組みを導入したのは社会人3年目くらいになってからでした。もっと早く動けていたら、その後の苦労も少なかったかもしれません。

私は都内の私立男子高に通いました。日々充実し、日々馬鹿みたいに遊びました。遊ぶと言ってもゲーセンに行くとか他校と喧嘩するといった治安の悪いものではなく、教室で友達と本気でチョークを投げ合うとか、授業中にメントスコーラで寝てるやつらを起こすとか、教室内にミニ四駆コースを作って授業中に突然レースが始まるとか。。。笑 もっとも私はビビりで、自分が率先してそういう面白いことを行うことなく、誰かがやっているのを周囲で楽しむ取り巻き側でした。

隣のクラスで、教室の後ろにあったロッカールームをノコギリやドリルを持ってきてDIYで改造して、当時発売されたばかりのPS3やゲームキューブを持ち込んで授業中にこっそりプレイするという強者がいたんですが、クラスメートと「そこまでやっちゃダメだよね、物事には節度がある」みたいな謎の会話をしたのも覚えてます笑

バイオリンの弓を動かせなくなった私は、それでも音楽がやりたくて軽音楽部に入部しました。また、サッカーは体力的にしんどいという謎の理由から、陸上部を兼部し、1500mや走り幅跳びをメインに適度に体を動かしました。

軽音部では結構真剣に打ち込み、ギターとしてバンドに入って速弾きばかり練習してました。クラシックとロック・メタルを掛け合わせるジャンルに非常に興味があり、速弾きの王様イングウェイ・マルムスティーン、ブラジルのメタルバンドAngraのキコ・ルーレイロ、数々の伝説を持つ親日家ポール・ギルバード、自身の日記を書くために自身しか解読できない言語を作るほどの天才で他者は真似できないリフを作り続けるバークリー主席卒業スティーブ・ヴァイなど著名なギタリストをひたすらコピーします。

一時期本当にインディーズやメジャーデビューを目指そうという話にもなりましたが、今思い返すと本当にならずに良かったと思います笑 とてもじゃないけど、そんなレベルではなかったし、何より覚悟がなかった。両親は終始生暖かく見守ってれましたが、その道に進んでも途中で頓挫していたと感じます。

また、この当時組んでたバンドはアニソンを扱うことが多く、この時期から本格的にアニメにもハマるようになりました。人間やりこむと中々真面目にやるもので、一番ハマった『コードギアス 反逆のルルーシュ』は、全50話ほどのTV放送を録音し、当時使ってたiPodに入れて電車での登下校中にずっと聴き、それを電子辞書使って英訳してノートに書き写してシャドーイングする、といったところまでやり尽くしました笑 全盛期には全セリフを丸暗記してました。

お勉強は取り残されない程度にそこそこ頑張っていた程度です。覚えている限りでは、高1最初の定期テストで約300人いた学年30番以内に入って両親を喜ばせたものの、上記のように遊び惚けていたため徐々に順位を落とし、高3の2学期の頭には200番台になっていました。

それでも高1の3月に世界史専門塾ゆげ塾に出会って社会科目には死ぬほど打ち込み、高3の夏休みから本格的に勉強して多少は巻き返しました。現役時は一橋志望でしたが、東大模試でC判定くらいまでは頑張れました。

しかし、試金石として受けた高3の10月の防衛大学で合格し、母曰く一気に集中力が落ちて気が緩み、結局一般受験期には一橋はおろか受験した大学全て不合格。親にお願いして浪人生活を始めることになります。

この時期を振り返って学ぶこと

「継続は力なり」積み重ねること、辞めないこと、他者に何を言われても自分のやることに集中すること。これらの重要性を非常に感じます。

幼少期からフロー状態になれる体・習慣作りの大切さを痛感するし、幼少期から注力したバイオリン・サッカーがこの頃の成功体験の土台にあることを考えると、幼少期に親が与えてくれた注力分野がいかに大切なのかを痛感します。また、今の自分の仕事内容を考えると、もうちょっとコンピュータサイエンスや理系の勉強に興味を持つ機会も欲しかったなと思ったり。

自身も親の立場になった今、環境を整えて子供に与える機会の重要性と責任を痛感します。

宜しければ下記もご覧ください。

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